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GSCの歩み

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 対談 - GSC10周年記念誌より -

榊 佳之×和田昭允×堀田凱樹
ゲノム科学の新時代を切り拓いた、GSC10年の軌跡

ゲノム時代の到来とともに設立され、 2007年に発足10年目を迎えた理化学研究所ゲノム科学総合研究センター(GSC)。
かつてのアポロ計画にも匹敵するといわれたヒトゲノム計画に寄与し、日本のゲノム研究を強力に牽引してきた。
世界中にその存在をアピールしつづけた10年の軌跡をたどり、 未来への展望を語ってもらう。

和田昭允
理化学研究所 研究顧問
1952年、東京大学理学部化学科卒業。理学博士。同大学理学部教授、理学部長を経て、1998年にGSCセンター所長に着任し、2004年よりGSC特別顧問。2008年4月より現職。
榊 佳之
国立大学法人 豊橋科学技術大学学長
1971年、東京大学理学系研究科博士課程修了。理学博士。同大学医科学研究所教授、GSCプロジェクトディレクターを経て、2004年より2008年3月までGSCセンター長。2008年4月より現職。
堀田凱樹
大学共同利用機関法人
情報・システム研究機構 機構長
1968年、東京大学大学院医学系研究科博士過程修了。医学博士。同大学理学部助教授、教授を経て、1997年に国立遺伝学研究所所長に着任し、2004年より現職。
[司会] 長神風二
東北大学脳科学グローバルCOE脳神経科学を社会に還流する教育研究拠点 広報・コミュニケーション担当 特任准教授
2002年東京大学大学院総合文化研究科博士課程単位取得済満期退学後、同年より日本科学未来館勤務。2006年より、独立行政法人科学技術振興機構で科学コミュニケーションを担当。2008年1月より現職。

設立までの紆余曲折

長神 まず、GSCの設立までを振り返っていただき、設立までの経緯やねらい、困難だった点についてお話しいただけますか。

和田 第一に言えることは、GSCは、それまでの日本でされがちだった「必要になったから作ってくれ」という動機でできたものではないということです。私は東京大学理学部の化学科の出身ですが、ハーバード大学留学時代に生体高分子を対象にしていたワトソンやポーリングに接し、「生物を物質界の動く分子装置ととらえる」という新たな概念に出会いました。そこから「物質と生物をつなぐインターフェースはなにか」ということを私なりに考えはじめました。その後、東大物理学教室で助教授と教授を務めるなかで、「生物がもつ大容量の情報を、大きな装置を使って一括して取り込むことが必要だ」と考えるようになったわけです。そうしなければ複雑な生物を相手に、生物学が一貫して進むことはむずかしいと思ったのです。すでに、あらゆる生き物の遺伝情報がDNAに書かれているということがわかっていたので、熟慮の末、「DNAを生命科学と物質科学のインターフェースにして、その情報を大量に読み込む」という目標を掲げることにしました。これが、私の中でのGSC設立の原点になりました。

長神 生物学が、各教室で個人商店として営まれていた時代に、大型のゲノムセンターで一気に配列を読むという和田先生ならではの発想が生まれたわけですね。その思いと努力が実って、1998年にナショナルセンターとしてGSCが誕生することになるわけですが、DNAを読むだけでなく、cDNAの収集やタンパク質の解析など、5つの領域にわたるグループを発足させたのはなぜでしょうか。

和田 そのころアメリカでは、すでに日本を追い越して大がかりなゲノム解読の動きがありました。日本も負けられないと思っていたところ、榊 佳之さん(現GSCセンター長)や清水信義さん(現 慶應大学教授)らが、ある程度まとまったゲノム解読をはじめようとしていました。さっそく榊さんに協力してもらうことにしましたが、ゲノム解読だけでは「動く装置としての生物」の総合的な理解はできないと思い、さまざまな議論を経て、タンパク質解析やインフォマティクスなどを含む5つの領域を設けることにしたのです。一方で、設立予算を獲得するにも、激しい議論とたいへんな苦労がありました。

長神 榊先生は、5つの領域のうちの1グループを立ち上げられるなかで、どのようなことを感じられましたか。

 DNAの二重らせんの発見以来、ゲノム情報の解読は生命科学の最大テーマでした。私は理学部の出身で、微生物の遺伝子に関する研究をしていましたが、1977年に九州大学医学部に職を得てから、対象をヒトに移しました。DNAシーケンス技術は、ヒトも大腸菌も同じように解析する道を拓いてくれたわけですが、私のなかでは、遺伝病の原因遺伝子の発見やレトロトランスポゾンの発見などの成果を挙げるにつれて、ヒトゲノム解読が必然の流れとして生まれてきました。1987年に社団法人 林原共済会主催のフォーラム(林原フォーラム)で和田さんにお会いしたときに、アメリカ主導のもとにヒトゲノム計画が実行されようとするなかで、和田さんが「日本も、ヒトゲノムの配列決定にきちんと対応するための体制をもつべきである」と認識されたことに強い感銘を受けました。日本のヒトゲノム計画は松原謙一さん(当時 大阪大学教授、 現 株式会社DNAチップ研究所代表取締役社長)をリーダーに立ち上げられ、私も当初からかかわりましたが、1990年代半ばからは シーケンス解析に力を注ぎ、21番染色体解読の国際コンソーシアムを立ち上げるなど、さまざまな努力をしてきました。それがGSCのゲノム構造情報研究グループの立ち上げにつながりました。ゲノム解読がすべてとは思いませんが、ゲノム解読なしにゲノム科学はありえないというのが私の思いでした。

長神 堀田先生は、和田先生がGSC設立で東奔西走される前から、初代センター所長として赴任されるまでをご覧になっていたと思うのですが、どのようにお感じになっていましたか。

姿をあらわしたヒトゲノム

和田は、世界に先がけて自動かつ高速のDNA塩基配列解読技術を提唱したが、その重要性にいち早く気がついたのは、日本ではなく欧米諸国だった。とくにアメリカはヒトゲノム解読に積極的で、1985年に「30億対ものヒトゲノム配列をすべて読む」とするヒトゲノム計画を発表した。1988年には、計画を率いるジェームス・ワトソンやビクター・マキュージックのよびかけにより、日米欧の研究者によるヒトゲノム国際機構(HUGO)が設立され、1990年に「国際ヒトゲノム計画」が正式なプロジェクトとしてスタートした。1990年代半ばからは、いよいよ シーケンス時代に入り、国際チームは1996年にバミューダ島でおこなわれた会議においてヒトゲノムを各国で分担することを決定。日本は21番染色体を担当することになり、榊 佳之、清水信義らの日本チームはドイツチームと協力して、2000年に解読に成功した。そのころアメリカでは、クレイグ・ベンターが率いるセレラ社が、超高速で配列を読むためのショットガン・ シーケンス法を開発し、その手法で独自にヒトゲノムを解読しはじめた。ベンターの動きに危機感をいだいた国際チームは、計画の一部を修正し、2001年の概要発表を経て、2003年4月に解読を完了した。こうして、人類ははじめて自らの全ゲノムデータを手にすることになった。

堀田 私は20年近く、和田さんの隣の研究室で研究をしておりました。私自身は医学部の出身で、当時は遺伝子を道具だと思っており、道具として遺伝子を使いながら脳の研究をしたいと考えていました。つまり、私にとっての遺伝子は、電気生理の電極や、 組織を見るための顕微鏡と同列のものでした。

 そう考えていたときに、お隣の和田さんが「これからは、DNA配列決定を非常に安く、速くできるようにすべきである」ということを言い始めたのです。和田さんが「速く解読できるようになればいいでしょう?」と言うので、「もちろんそれはすばらしい」と答えました。「1塩基対、いくらでできたら使いますか?」と聞かれるので、当時、解読していた遺伝子の長さや研究予算を考えて「10円になればいいですが」と答えると、「それ無理でしょう」と笑われたのを覚えています。ゲノム解読について、はじめは、その程度の意識しかなかったのです。

長神 GSCが設立されてからは、いかがでしたか。

堀田 実際に配列データが出てくると非常に戸惑いました。「今までの科学は一部を見て全体を想像してきたのに、その意味はわからなくてもいきなり全部を読むとはどういうことなのか」、「全ゲノムを読む時代とは、どんな時代なのか」と考えさせられました。ただ、大学で大がかりな解読をするのはむずかしいし、大学院生に塩基配列の決定だけをさせるのもまずいと思っていましたので、解読を専門にやり、そのための大型装置とスタッフがいる組織をつくるのはとてもいいことだと思いました。GSCが設立されるころになると、「ゲノムの時代が、これまでの科学の考え方とはちがうものを生み出すだろう」ということが、ぼんやりとわかってきました。